株式会社リノシュガー

CTO として考える、「どんな開発組織が作りたいか」についての考察

8年在籍した現職(ポート)は2023/12末で会社を退職し、今後は雇用関係は解消した上で業務委託として関わることになる予定である。 本ブログのドメインにあるように法人も作ったので、今後はこちらで年に数回程度ブログを記載して、長期的に更新していこうと考えている。

今後は普段あまり話さないような自分のフィロソフィーや考え方について少しずつ蓄積させていく。
過去もう 5 年以上前になるが、私は転職活動をしていた時期があった。このときに印象に残った面接と質問がある。 「あなたは、もし弊社に入社されたら、どんな開発組織を作りたいですか?」との質問である。 まず、これをこれを聞いた一番最初の反応は「この質問が出ること事態が、マネジメントがうまくいってない証左だろう」との感想だった。 この面接は「相手からカジュアル面談したい」とのオファーがあったので行ったが、カジュアルでもなんでもない普通の面接だった。そのため第一印象からよくなかった。「カジュアルに話に聞きにいった」ものの、「弊社を面接に受けにきた志望動機は?」と聞かれる、お決まりのやつである。

さてそのような状態で質問される「どんな開発組織を作りたいですか?」に対する回答、必要な前提条件が揃ってないので、まともに答えることができない。「どんな人がいるか、どんな事業を担っているか、どこが課題で、今どのようなフェーズであり、どのような方向に向かっていくか、今後会社としての計画や方針はなにか」このような情報・質問が揃っていなければ、「あなたの会社にとってどのような開発チームが適切なのか」は判断できないし提案もできない。もちろん、当日たったの数十分の面接に来た私はそのような情報は知り得るよしもない。 「私がどんなチームを好むのか」との回答はいくらでも言える。例えば、プロフェッショナルな人材だけがいる職場がいいし、生産性が高く一人ひとり自立して働き、結果に対して熱意を持って取り組める、書いたコードもきれいにメンテナンスされており、TypeScript や Micro Service、Kubernetes やコンテナを全面的に対応して、インフラもすべて IaC 化されている、コードも最新バージョンを常に追従し積極的に新機能を取り入れており、可能であれば Goとか Rust とかも一部で取り入れて、KPTで一人ひとり前向きな議論ができる、高度な問題を高度な技術で解決し、抽象化されたきれいなコードが書けるメンバーだけで構成されており、誰もがトラブルシュートを柔軟に実行でき、毎日新しい知的好奇心と刺激がもらえる環境を与えてくれるような開発チーム、とかね。ただそんなことをその場で言って何になるのだろうか?

今私が紹介した回答の出発点はすべて「自分が」主語になっていることに気がついただろうか。本来「会社」は技術を使って営利活動を営むことを生業としているため、その本性上「あなた(私)の気持ちがどうか」という観点はほぼ関係してない。つまり、本来はこの質問をするにあたって、主語は「私」ではなく「あなた(私から見たら面接官)」でなければならない。そう考えると、もちろん回答を持っているのは私ではなく、面接官の方なのである。

人をサポートし、また他者のキャリアを支援し、他の誰もがやらないような組織に必要な諸活動を実施するには、自分の「want」はある程度犠牲にすることになる。また、そのような環境に長くおかれれば、必然自分以外の他者が何を期待しているか機敏に察知し、その期待に基づいて必要な支援をしていくように適応していくのである。もし質問された面接官の取り巻く環境が、先に述べたマネジメントの視点を得られる環境であれば、「自分」ではなく「他者」視点が根付いたものに本来なるであろう。これが冒頭で述べた「この質問が出ること事態が、マネジメントがうまくいってない証左だろう」との感想を持った理由である。

仮に「どんな開発組織が作りたいか」明確なビジョンがあった人がいるとしよう。私はこのような人を熱意のある人であるとはみなすが、「プロのマネジメント」とは認めることはできない。なぜなら、「プロのマネジメント」であれば「自分がどのようなニーズを持っているか」に関係なく、自らの職責・職務をこなすからだ。例えば、様々な外部環境・財政環境・人的リソースの制約を考慮して、「外部に業務を委託発注すること」が開発課題に対しての最適なアプローチだったとしよう。その一方で、熱意のあるリーダーが、「自社の開発チームをスクラムやアジャイルでまとめあげる」ことだったとしよう。その場合、事業としての最適解と開発リーダーの意思や意図が真逆を向いてしまわないだろうか。その場合はどのような選択を開発リーダーが下すのがベストなのだろうか。

このような「want」を優先する人はマネジメントからの適正もやや外れるだけではなく、サラリーマンとしての適正もやや外れていると考えている。その理由は以下の通りである。

1, 自らの「want」が強い人は外部環境の変化に弱い。つまり自分がやりたくないこと、やりたいことができない環境に置かれたときに気持ち的に大きくパフォーマンスを落としがち。そしてそういった人は往々にして青い鳥を求めて転職を繰り返す可能性が高い。当然いずれ、どこかで妥協することになるであろう。
2, 自らの「want」が強い人は、サラリーマンとして組織のヒエラルキーの一部になることと相性が悪い。サラリーマンはどんなに役職が上がっても上下のヒエラルキーはあるので、自分の意思を犠牲にすることはあるからである。よって自分の意思が強く妥協ができない場合は、起業・独立、自営業やフリーランスなど「自らの意思と選択で切り開ける」道を選ぶ可能性が高い。

もちろん、これらは性格や趣向の違いであって、正解や誤りなどはない。
自分の want を優先して自由に生きるもいいし、そこと一定程度妥協をつけて折り合いをつけながら生きるのもいいのであろう。

当時の面接官との面接を後にし、こんな思索に耽ったことを、ふと 5 年後の今のタイミングでまた思い出したのである。

追記)本記事位は、ポートアドベントカレンダー 9 日目のブログ記事である。